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Visions of Masochist
自分を律し、行き先を指し示す【Vision】。 しかし、行き先の分からない「背徳の幻想」が、私の中には存在する。
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ささやかな誇り
 「処女」や「童貞」は純潔でけがれのない証だ、という考え方は、今の世の中で口にできるようなことではないだろう。

 自由に恋愛し、異性に心を開くことを許されて育った人々と、様々な理由でそれを許されなかった人達との考え方が違うことは仕方がない。人を好きになり、そして好かれれば、その時その時で身体を合わせたいと思うのは当然のことだと思う。

 将来出会うかもしれない伴侶のために、倫理規範として保つ「純潔」も、確かにそれなりに尊いことかもしれない。しかし、Mの嗜好を持つ者にとっての「純潔」は、そういう方法では保つことはできないことではないだろうか。
 自分のM性を自覚し、一人の主の前で平伏することを選んだ瞬間、Mにとっては目の前の主に全てを捧げることになる。将来にわたり、何か一部分の「純潔」を守りながら、自分のM性を試すような中途半端な行動を取れるはずがない。

 だから、いろいろな理由で、結果として「初めての主」との関係が続かず、他の「主」を探すことになった瞬間、Mとしての「純潔」は崩れてしまうのかもしれない。

 では、数々の恋愛経験を経て結婚した夫婦と、お互いに初めての異性として結婚した夫婦のどちらが「美しい関係」だろう。

 そして、何人もの「主」を経て自分の元に平伏した奴隷と、今まで誰の奴隷になったこともない、というMと、どちらが好まれるのだろうか。

 私が御主人様に捧げることができた「純潔」は、「M」としての純潔ではなく、また、「男性」としてのものでもない。

 「女装M」として、縄での拘束を受けたことも、蝋涙を浴びたことも、奴隷誓約書にアナルで拇印を押したこともある。厳密に言えば、一度だけSMクラブに行き、形ばかりのプレイをしたことがあるから、そのことを指摘されてしまえば、純潔などという言葉は使えない。

けれど、

 鞭で私を撲ったことがあるのは、御主人様だけだ。

 私の身体に受け入れ、全身に染みこんだ聖水は、御主人様のものだけだ。

 素顔のまま、まるで友人のように雑談していながら、自分一人だけ裸になり、足下に平伏して奴隷の顔を見せられるのも、苦悶と恍惚が混じった表情を見せられるのも、御主人様だけだ。

 ささやかだけれど、それが、私の誇りである。

 この身体に、死ぬまでにいくつ御主人様の証を刻むことができるのか、そのことを考えれば心が熱くなる。本当は、息が絶え絶えになるまで、磔台に身体を固定されたまま、一本鞭で痕を刻んでもらいたい。

 妄想が、募る。そんな夜を、過ごしている。
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