瞬間的な痛み、熱さ、異常を感じた時、手のひらをそこに当てるのは、一種の反射行動といえるだろう。誰に教えられたわけでもなく、誰もが行うこの動作を奪われた時、痛みや熱さが全く違うものに感じられる。
自縛したり、自分の体に蝋燭や浣腸を施していると、当然のことながらそれが体に作用を始める瞬間のタイミングを知ることができる。そして、そのことは自分に責めを施してくれるパートナーを持たない者にとって最大のネックになる。
自縛したり、自分の体に蝋燭や浣腸を施していると、当然のことながらそれが体に作用を始める瞬間のタイミングを知ることができる。そして、そのことは自分に責めを施してくれるパートナーを持たない者にとって最大のネックになる。
何cc入れるか最初からわかっている浣腸と、何本入れられるのかわからない状態とでは、心が受ける恐怖感、もっと言えば苦痛を受け止める重さが全く違ってくるだろう。
「今日は○○ccの浣腸を、何分間耐えます」
と宣言してその通りに耐えることと、
「ヒヒヒ、こんな尻をして・・・、まだまだ足りるわけがなかろう・・・」
と、延々責められていくこととの違い、かもしれない。
私は男性なので、女性の御主人様との間では、どうしても【FEMDOM】様式が最もぴったりする。責めの前には平伏してこれからの責めを乞い、十分に責めを与えていただいた後は同じ姿勢で謝意を表すことで、お互いの関係性が成立し、お互いの立ち位置のようなものをはっきり明らかにすることができる。
ある課題を設定し、自分でその課題を克服することを宣言させ、あるいは懇願させてから実行させ、そのことで忠誠心を確かめていく行為は、まさに「調教」と言えるだろう。
初めて被虐嗜好に目覚めた時から最近になるまで、私は自分の心の中に「御主人様」を求める気持ちを、それほど強く持ったことが無かったし、体に苦痛を与えることによって自分がどんな反応をするのかを探求する上で必要なのは、
「信用がおけて、自分のコントロールできる限界の少し上にある領域まで、苦痛を与えてくれる存在」
でしかないと思っていた。
いわば【他人の体を使った自慰行為】である。
自慰の延長線にある以上、「主従の関係」とか、そこに横たわる人間的な感情(独占欲や、嫉妬や、心の平静が時に破れること)の存在は鬱陶しいだけだった。時に、そうした感情がこじれた時、お互いに相手の存在を傷つけ合うことになる危険性を避けたかったから、なのかもしれない。その危険性は、人間同士である以上、全くないとは言いきれない。
しかし、乳頭を的確に挟み込むクリップの痛みにしろ、力を込めて体を撲つ一本鞭の先端の衝撃的な痛みにしろ、受けた瞬間その部位を自分の手のひらで押さえられない状況になって初めて、痛みの本質がわかったような気がする。
具体的な個数や強さや回数を事前に伝えることなしに、「自分にとって適切な強さの苦痛」を与えてもらうことが幻想であることに、やっと気づいた。痛む部位に手を当てることを許されず、耐えきれずに口から悲鳴が吹き出る。その声で自分の悲鳴があまりにも情けないことを知り、それでも責めを与え続けてくれる存在が、目の前にいる、と感じた時に湧き出た安心感。
「自慰」と根本的に違う世界が目の前に開けていた。
希望の責めを注文し、注文通りに提供されることを私はあれほど嫌がっていた。それが浅はかだったことに気づくまで、本当に長い時間がかかった。
「SMは信頼関係だ」としたり顔で語るようにはなりたくない。けれど、かけがえのない存在を得ることなしに、「自慰」から脱却できないことに気がつけたことを、今は幸運に思う。
自分から注文したわけではない責め具が目の前に提示された瞬間、私を包んだ暖かく、冷たい恐怖心が、今も消えずに残り、今も私の心を灼き続けている。
「今日は○○ccの浣腸を、何分間耐えます」
と宣言してその通りに耐えることと、
「ヒヒヒ、こんな尻をして・・・、まだまだ足りるわけがなかろう・・・」
と、延々責められていくこととの違い、かもしれない。
私は男性なので、女性の御主人様との間では、どうしても【FEMDOM】様式が最もぴったりする。責めの前には平伏してこれからの責めを乞い、十分に責めを与えていただいた後は同じ姿勢で謝意を表すことで、お互いの関係性が成立し、お互いの立ち位置のようなものをはっきり明らかにすることができる。
ある課題を設定し、自分でその課題を克服することを宣言させ、あるいは懇願させてから実行させ、そのことで忠誠心を確かめていく行為は、まさに「調教」と言えるだろう。
初めて被虐嗜好に目覚めた時から最近になるまで、私は自分の心の中に「御主人様」を求める気持ちを、それほど強く持ったことが無かったし、体に苦痛を与えることによって自分がどんな反応をするのかを探求する上で必要なのは、
「信用がおけて、自分のコントロールできる限界の少し上にある領域まで、苦痛を与えてくれる存在」
でしかないと思っていた。
いわば【他人の体を使った自慰行為】である。
自慰の延長線にある以上、「主従の関係」とか、そこに横たわる人間的な感情(独占欲や、嫉妬や、心の平静が時に破れること)の存在は鬱陶しいだけだった。時に、そうした感情がこじれた時、お互いに相手の存在を傷つけ合うことになる危険性を避けたかったから、なのかもしれない。その危険性は、人間同士である以上、全くないとは言いきれない。
しかし、乳頭を的確に挟み込むクリップの痛みにしろ、力を込めて体を撲つ一本鞭の先端の衝撃的な痛みにしろ、受けた瞬間その部位を自分の手のひらで押さえられない状況になって初めて、痛みの本質がわかったような気がする。
具体的な個数や強さや回数を事前に伝えることなしに、「自分にとって適切な強さの苦痛」を与えてもらうことが幻想であることに、やっと気づいた。痛む部位に手を当てることを許されず、耐えきれずに口から悲鳴が吹き出る。その声で自分の悲鳴があまりにも情けないことを知り、それでも責めを与え続けてくれる存在が、目の前にいる、と感じた時に湧き出た安心感。
「自慰」と根本的に違う世界が目の前に開けていた。
希望の責めを注文し、注文通りに提供されることを私はあれほど嫌がっていた。それが浅はかだったことに気づくまで、本当に長い時間がかかった。
「SMは信頼関係だ」としたり顔で語るようにはなりたくない。けれど、かけがえのない存在を得ることなしに、「自慰」から脱却できないことに気がつけたことを、今は幸運に思う。
自分から注文したわけではない責め具が目の前に提示された瞬間、私を包んだ暖かく、冷たい恐怖心が、今も消えずに残り、今も私の心を灼き続けている。
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