初めて、リアルタイムの感情をここに書く。
今まで、そうしようとは思わなかった。
書いてしまうことで、長い放浪の後で見つけた自分が本当に求めていた場所に、何か不測の事態を引き起こすことが怖かった。そして、そこで見つけた本当の解放感、存在感、幸福な充足感を十分に表現することなどできなかった。
時々物語調に振り返ったことはある。それは、どこか自分を客観的に描写することで、自分の味わった幸福感を間接的に誰かに伝えようと思ったからだったかもしれない。
今からほんの一ヶ月前。
私はある意味自分の人生で初めて味わう絶頂感に浸り、そして、それが今、夢のように一時にはじけていくような時間を過ごしている。
今まで、そうしようとは思わなかった。
書いてしまうことで、長い放浪の後で見つけた自分が本当に求めていた場所に、何か不測の事態を引き起こすことが怖かった。そして、そこで見つけた本当の解放感、存在感、幸福な充足感を十分に表現することなどできなかった。
時々物語調に振り返ったことはある。それは、どこか自分を客観的に描写することで、自分の味わった幸福感を間接的に誰かに伝えようと思ったからだったかもしれない。
今からほんの一ヶ月前。
私はある意味自分の人生で初めて味わう絶頂感に浸り、そして、それが今、夢のように一時にはじけていくような時間を過ごしている。
あれだけ悩み、放浪し、見失い続けた自分の性的な「裏」の顔の居場所が見つかったことで、「表」の自分の安定感が増していくことを、日々自分でも実感していた。
「顔」を使い分けることが上手なタイプだと、表の私を見る人は言うだろう。
しかし、「裏」の顔を知る人に「表」を見せることができず、「表」には「裏」を隠し続けることは、全ての人に嘘をつくことを意味していた。
「表」の評価を聴く度、「裏」の自分を意識せずにはいられなかった。時折、「裏」の心が疼くたび、誰にもその顔を知られない方法で解消することを私は選び、そしてそれを、何度も何度も繰り返し続けた。
blogで今までの全てを露わにしてしまおう、と思ったのは、「表」と「裏」の両方の顔を知る御主人様の前で傅くことができたからだ。ずっと以前、SMクラブで強いられる形ばかりの「隷属の儀式」にはなじめなかった私が、御主人様の前では、性的な欲求と被虐心と純粋な尊敬の念を全て込めて平伏することができた。そこから始まる数時間で、私は、呻き、苦痛に啼き、愉悦し、それを見つめる御主人様の表情、香り、全てを心を震わせながら味わっていた。
その現実は、私の心に、求め続けた幸せを与え、何者にもひるまない強さを心の中に沸き立たせててくれた。かけがえのない御主人様の足下で平伏した瞬間から始まる数時間の逢瀬は、私が求めて止まなかった幸福の全てだ。
すがりついてでも、無くしたくない場所、今すぐすがりついてその足下で平伏して赦しを乞いたい。そして、それを受け入れる代わりに、今までで一番厳しい苦痛を与えて頂いて啼きたいと叫ぶ本能が、心の中で叫んでいる。
そして、だからこそ御主人様にすがりついて求めてはならないのだ、とその行動を制す理性がその後を追う。
「関係」がリーガルなものであったなら、そして、もっと早ければ、あるいはもっと遅ければ、ここまで苦しむことは無かったのだろうか。
苦しい、と呟いた次の瞬間、でもこれは、今だから味わえることなのだから、私は過去にも未来にも移動せずに楽しめるような気がするのです、と御主人様に話したことがある。
今、とても、そんなふうには思えない。
手元に残っている、たった3ヶ月前の映像の中で、私は御主人様に一本鞭を打たれ、確かに哮り狂う性衝動を爆発させている。
あの陶酔の中に戻れるなら、戻れるものなら今すぐに戻りたい。
どうすればいいのか、答えは、見つからないままだ。
「顔」を使い分けることが上手なタイプだと、表の私を見る人は言うだろう。
しかし、「裏」の顔を知る人に「表」を見せることができず、「表」には「裏」を隠し続けることは、全ての人に嘘をつくことを意味していた。
「表」の評価を聴く度、「裏」の自分を意識せずにはいられなかった。時折、「裏」の心が疼くたび、誰にもその顔を知られない方法で解消することを私は選び、そしてそれを、何度も何度も繰り返し続けた。
blogで今までの全てを露わにしてしまおう、と思ったのは、「表」と「裏」の両方の顔を知る御主人様の前で傅くことができたからだ。ずっと以前、SMクラブで強いられる形ばかりの「隷属の儀式」にはなじめなかった私が、御主人様の前では、性的な欲求と被虐心と純粋な尊敬の念を全て込めて平伏することができた。そこから始まる数時間で、私は、呻き、苦痛に啼き、愉悦し、それを見つめる御主人様の表情、香り、全てを心を震わせながら味わっていた。
その現実は、私の心に、求め続けた幸せを与え、何者にもひるまない強さを心の中に沸き立たせててくれた。かけがえのない御主人様の足下で平伏した瞬間から始まる数時間の逢瀬は、私が求めて止まなかった幸福の全てだ。
すがりついてでも、無くしたくない場所、今すぐすがりついてその足下で平伏して赦しを乞いたい。そして、それを受け入れる代わりに、今までで一番厳しい苦痛を与えて頂いて啼きたいと叫ぶ本能が、心の中で叫んでいる。
そして、だからこそ御主人様にすがりついて求めてはならないのだ、とその行動を制す理性がその後を追う。
「関係」がリーガルなものであったなら、そして、もっと早ければ、あるいはもっと遅ければ、ここまで苦しむことは無かったのだろうか。
苦しい、と呟いた次の瞬間、でもこれは、今だから味わえることなのだから、私は過去にも未来にも移動せずに楽しめるような気がするのです、と御主人様に話したことがある。
今、とても、そんなふうには思えない。
手元に残っている、たった3ヶ月前の映像の中で、私は御主人様に一本鞭を打たれ、確かに哮り狂う性衝動を爆発させている。
あの陶酔の中に戻れるなら、戻れるものなら今すぐに戻りたい。
どうすればいいのか、答えは、見つからないままだ。
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