いろいろな責めを行う時、身体に無制限に痕を付けられるM男性と、いろいろな状況がそれを許さない男性と、「奴隷」と呼ぶにふさわしい男性は、どちらだろうか。
「女王様の好きにしてください」
といいながら、鞭はだめ、縄もだめ、ご奉仕なら・・・、と、腰が引けていくM男性が批判されているのをS女性のblogで見かける度、私には他人事と思えない。
「女王様の好きにしてください」
といいながら、鞭はだめ、縄もだめ、ご奉仕なら・・・、と、腰が引けていくM男性が批判されているのをS女性のblogで見かける度、私には他人事と思えない。
主従関係と、倫理的な(時には法律的な)関係とが両立するなら、「痕」に対する問題は恐らくあまり大きな問題にはならないだろう。
問題は、両立しない時である。
「痕が残らず、責めている最中はとても辛く苦しい責め」
そんなものがあれば、探し出してすぐに御主人様に提示してみたい。そして、痛みに呻き、苦悶の表情で涙を流すまで、その責めで少しでも長く苦しみたいと思うのだ。
以前私は、【男性の被虐美 ~提起~】の中で、
「どうして苦痛を求めるのか」
と聞かれ、
「苦痛を与えてもらうことを一義的に欲するのであって、服従の儀式を一つ一つクリアした後に頂く「ご褒美」のために苦痛を耐えているとは思えない」
と書いたことがある。それから、半年以上がたった。
元旦最初のエントリーだから、今、その言葉を訂正する。
私が一義的に欲するのは、「御主人様」というたった一人の女性から苦痛を与えてもらうこと、そして、御主人様が苦しむ私の顔をみて冷たく微笑むその表情を見ること、だ。
「痕が残らず、それでいて辛い苦痛」になりうることをいくつか見つけたところで、以前のようにSMビデオを見ながら自分にその苦痛を与えながら自慰することではもう満足することはできない。
仮に「苦痛を与えてもらうこと」が一義であったなら、後腐れなく自分の欲求を叶えてもらうためにはプロのS女性か、倫理的に問題のないパートナーに「お願い」すればいいだろう。そして、そうすることが一番誰も傷つけないで済む解決策なのだ。
様々なリスクを冒し、自分が過去に誓った何かを破ることとわかっていながら、私は御主人様からその苦痛を受け、あの冷たい笑顔と、曇りを湛えた視線で見られてみたいと願う。
私は、身体に痕を残さないような責めなら受けられます、と自分のM的ファンタジーを押し付け、日常生活を脅かす命令ならば聞き入れない身勝手な人間だ。
けれど、それでも、どうしてもあの笑顔が見たい。そして、その笑顔を引き出すために一番ふさわしいのは、私の苦痛にゆがむ表情なのだ。
私の身体は、苦痛で表現する愛情を交換するためのキャンバスである。染料を激しく叩きつけ、筆を荒々しく書き殴るような描写を受けとめられるキャンバスでいたいし、それが苦しいものであればあるほど、その創作意欲を表現する場所は自分しかあり得ない、と誇ることができる。
想像の中で、私は自由にそう願い、次の瞬間、もう何ヶ月も前に使った「せんねん灸」の火傷痕が消えずに残る下腹部を眺めながら、目立つ場所でなくてよかった、と安堵してしまう。
これが、エゴでないなら、何なのだろうか。
私が捧げられるのは、こんなキャンバスでしかない。しかし、それは、他の誰にも触れさせない、御主人様だけのキャンバスであることだけは、誓う。
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