すれ違ったり、行き違ったり、些細なことのすりあわせがうまくできなかったり、勘違いしたり、人と人との間にはあうんの呼吸だけで成り立たないことがどうしてもあると思う。
些細なずれすらなくそうとしすぎると、時にそれは行動の束縛に現れはじめ、それでもぬぐいきれないと猜疑心と共に監視や束縛をエスカレートさせはじめるものなのかもしれない。
混んだ電車の中で、ひっきりなしにメールを打ち続ける高校生を見ながら、そんなことを思った。
些細なずれすらなくそうとしすぎると、時にそれは行動の束縛に現れはじめ、それでもぬぐいきれないと猜疑心と共に監視や束縛をエスカレートさせはじめるものなのかもしれない。
混んだ電車の中で、ひっきりなしにメールを打ち続ける高校生を見ながら、そんなことを思った。
もともと「都合のいいときに連絡ができる」はずのメールすら、直接話した方がよほど早いことまで送信しあい、返事が遅いとまるでさぼっているかのような言われ方をする世の中に生きていると、些細なすれ違いを避けるための知恵ばかりがどんどん着いてくる。
少し前に流行った「ビミョー」のような言葉を使い、態度を保留しながら実は何も言い切らないままでいると、確かに怒りを買って傷を負うことはないかもしれない。でも、きっと、何も得られないのだろう。
「こんなことを言ったら変な人だと思われるかもしれない」
「折角うまく続いている関係に波風を立てたくない」
親しい人、大切な人と思えば思うほど、失う怖さを恐れ、いつからか無意識に仮面をかぶり、その仮面に負けて自分を見失う危険に、きっと誰もが直面しているのではないだろうか。
そんなふうにどこか達観できるようになったのは、御主人様の前に自分の素顔を晒せるようになってからだ。
女装にせよ、ネット調教にせよ、私はリアル世界の自分とSMを好む自分の姿が重なることを極度に恐れてきたし、それ故「責められる自分」の姿が普段の自分と重ならなければ重ならないほどその世界に没頭できていたのだと思う。
くつろぐ御主人様の足下に、全裸で正座して成り立つ関係性を手に入れて以来、私は御主人様に意識や見解のすれ違いを指摘されたり、期待にそぐわない振る舞いや考え方を質される度に、強い磁力で心と体を引きつけられる感覚を覚えるようになった。
きっとそれは、些細なすれ違いを膨らませて後戻りができなくなるほどナーバスな関係性ではなく、激しく主張されてもそれを虚心で受けとめられるようになったことの象徴なのだろう。
SとMとの妄想交換ではなく、もっと、些細なことを質されてみたい。時折小さなすれ違いの度、そう思うようになった。
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