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Visions of Masochist
自分を律し、行き先を指し示す【Vision】。 しかし、行き先の分からない「背徳の幻想」が、私の中には存在する。
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かつては判らなかったこと
 普段あまりblogを読んで回ることはないのに、たまたま休みが続いたので、いくつか、S女性とM女性のblogをいくつか見てみていた。

 たまたま、若い男性の精を何回も搾り取ってみたい、と書かれたエントリーを見つけた。
 もともと、私は性欲を身体の中にもてあますタイプの男性だったから、一日に何回も(時には今でも)自慰することがある。しかし、いわゆる「快楽責め」という感覚が男性にはあり得ないものだと随分昔に判っていたから、射精した後さらに刺激を続けたことはほとんどない。

 ときおり、女装系のblogや小説を見つけ、電気マッサージ器で無理矢理長時間の刺激を続けられる苦悶を味わってみようとした。

 両足を縄で縛り、マッサージ器を固定して電源を入れていたことがあるが、実際は結局一度射精すれば急に醒めてしまい、一人きりで彼らと同じ苦悶を味わうのは無理なことを思い知るだけだった。

 もっぱら私の性衝動は結城彩雨作品のヒロインのように、絶え間なく、何度も何度もトロ火にかけられるように性感を昂ぶらされ、変態的な行為で身体を燃えさからせていく女性の姿に投影されていった。

 何度体内に男性の精を浴びても、何度浣腸されて苦悶の脂汗に塗れても気絶すら許されないで責め続けられる主人公の女性の被虐美の世界に、自分には決して手に入らない女性的な快楽の桃源を見ていたのだろうと思う。

 限りない快楽と、限りある快楽。

 男性のそれは後者だから、射精しないまま長時間女性を楽しめる者こそが「男らしい」と考えていたような気がする。また、俗に「絶倫」というのは、射精した後さらに昂奮状態を保てる男性自身のことをいうのだろう。

 いつでも自分自身を屹立させ、女性の身体にねじ込むことだけを求めるのもまた、男性自身の性なのかもしれない。そう思いながら、私は現実の性行為にはあまり衝動を駆られないまま成人し、かなり長い時間をそのまま過ごした。

 よく「ヤリたい」とか、「溜まってる」と言う友人を横目に、女性の体内に自分自身を収める行為自体には私はあまり興味をもてなかった。どちらかといえば「ここまで来たら抱かなければならない」「抱かないと相手に恥ずかしい思いをさせてしまう」と強迫観念に思うことの方が多かったから、肌を合わせて抱きあうくらいまでが自分の快楽、その後はただ、おまけみたいなものだと思っていた。

 それが変わったのは、ほんの一年ほど前だ。

 主従の関係を結び、それまでの長い時間を掛け、表の世界の自分の姿を開示し、話しをし続け、一時期は「SMの趣味を理解している友人」の期間を過ごした後の行為。

 甘美な快楽に身体がどろどろに溶け、何度放出しても身体の中の衝動は、消えずにぶすぶすと燻りつづけ、夢の中まで時に現れては消える。身体的な限界はそこに存在しているはずだけれど、限界が感じられなくなるほど衝動が限界を取り去っていく。

 自分の身体の中の性衝動が、こんなにも特定の女性に向けて尽きることなく湧き出てくることを、私は今まで知らずにいた。

 かつては、知らなかった自分の身体の事実である。

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