時々、人気サイトを運営している人のblogやエッセイなどで、真意が伝わらずとてももどかしい気持ちがしたことやその対応で神経をすり減らしてしまったというため息のようなつぶやきを見かけることがある。
目の前で流れていく「不毛な会話」に対して、本当に無関心でいられるくらいに「心の感度」を鈍くできる人なら、きっとそういう悩みは持たないのかもしれない。
伝わらないことについては正しく伝えたいと思い、人からの指摘であれば悪意の中にも幾ばくかの真実はあるはず、まして善意ならばなおさら何かがあるはず、と考えることは、きっと前向きで正しくて真摯なあり方に違いない。
けれどもそれは、「誰に対しても」しなければならないわけではないと思う。
どんな客でも対応すること、とか、どんな難題でも解決します、というのは、飯のタネで世の中から幾ばくかのお金を引っ張ってくるときには必要な気合いであり、そんな時まで自分らしく好きなように振る舞おうとしても無理だ。
言われなき批判に耐え、それでもその中から何か「次」に生きる何かを探し、言うべきことを言っては同僚と諍いを起こしてはまた新しい難題に立ち向かう気力は、そういう時に使えば十分だと思う。
「伝わらない人には伝わらない。」
何をどうやってもどうしてそういうふうに考えるのか理解できない人は、結構、身近にいるものではないだろうか。たまたま会社の隣の席にいるかもしれないし、友人の輪の中になぜかそんな人が一人二人いたりすることもあるだろう。少なくともオトナになるまで○十年生きていれば、そんな人に一人も出会わなかったなんて人はほとんどいないはずだ。
だから、大抵の人は、そういう人に、深入りしないでやり過ごす経験を持っている。
目の前の出来事が、眼に映っていても見えないようにする方法を、きっと身につけているはずだと思う。
文字で書かれた、とりわけディスプレイに映し出される文字からは、稚拙なコミュニケーション能力も不安定な感受性も、独善も、みんなフラットにして眼に入る。手書きの履歴書の文字を見れば、大抵の人はその人の人となりをある程度見抜くことができるものだ。なのに、どう考えても間違っていることでも、こうしてキーボードから打ち込んで一つのエントリーにしてしまえば、それなりに正しいことを言っているような気がする。
それもコンピュータの魔力の一つなのかもしれない。
すれ違って、勘違いして、返事が来るまでの時間を推し量っては悩み、すべてを開いた主従の間でも、メールを使えばやっぱりいろんなすれ違いは起きる。それを、その都度しょうがないよね、ですませなかったから、得られた何かがある。それは間違いない。
でも、そんなことは誰にでもしないといけないことではないし、同じことを書いて正しく読み取れない相手は、それをそのまま放っておけばいいのだと思う。
放っておいてるんだよ、と敢えて分からない程度に力を抜き、さも見ているような顔をして眼に景色を移し、見ないでいるのがちょうどいいだろう。
網膜の裏まで焼き付くほど濃密に見つめる相手と、眼に映ってるけど見えない相手を両方同じ力で大切にする必要はないと思う。人生は短いから。
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