「one of them」の「one」を選ぶのは、大抵の場合、男性、女性にかかわらず、Sの側でないと収まりが悪い。
主従の「従」の側が「them」に安住している分にはさして問題にならない精神的な結びつきが、焦点を逆にすると成り立たなくなる。本来、その不可逆性が、「主」であれ「従」であれ、自分の存在を強固に規定するのだろう。
自分の位置に迷いがなくなることはすなわち、欲求と欲望と渇望の中で彷徨った苦しみから救われることなのだから、あえてそれを逆転するような行為を望むのは単になにかの不満の表れでしかない。
いつまでも決まった「主」を持たず、かりそめの「主」にかくれては新たな「主」に巡り会うまで関係をねだっていくMは「エゴマゾ」と言われて蔑まれるものだ。
・・・、でも本当にそのカタチしか、ないのだろうか。
主従の「従」の側が「them」に安住している分にはさして問題にならない精神的な結びつきが、焦点を逆にすると成り立たなくなる。本来、その不可逆性が、「主」であれ「従」であれ、自分の存在を強固に規定するのだろう。
自分の位置に迷いがなくなることはすなわち、欲求と欲望と渇望の中で彷徨った苦しみから救われることなのだから、あえてそれを逆転するような行為を望むのは単になにかの不満の表れでしかない。
いつまでも決まった「主」を持たず、かりそめの「主」にかくれては新たな「主」に巡り会うまで関係をねだっていくMは「エゴマゾ」と言われて蔑まれるものだ。
・・・、でも本当にそのカタチしか、ないのだろうか。
男性がSで、M女性を共同で責める、という構図は割とよく見かける構図だ。そして、何人ものS女性がM男性を囲み、暴虐の限りをつくす、という構図もまた、M男性向けのビデオにはよく見られる。
しかし、それは構図の上では「多対一」なのかもしれないけれど、お互いにお互いが「them」であって「one」ではない状態、なのではないだろうか。
「奴隷オークション」のように、大勢の中から一人を一方的に選ぶことは、あたかもまさに「one of them」を決める舞台に見えて、実はただ単になにかを選んだだけ、に過ぎない。
「one」になりうる存在は、もともと「them」の中にはいないような気がする。
「them」の中にいる「one」は、確かに一つの存在ではある。でも、「them」が「one」の集合体だと思った瞬間、それは単に相対的な比較行為に過ぎなくなる。
比べる、という行為の先に、ほんとうの答えは見えないものだと思う。
目の前の「them」が、自分の求めうる一番大きな集合体なのか、それは誰にもわからないし、比較優位に立っているモノが、果たして自分の「one」になりうるのかどうかは、やはり誰にもわからないことなのだろう。
とはいえ、特にSの女性が、素性のわからない異性をいきなり受け入れるのは、相当に危険なことだ。ネット経由で知り合った異性を、無邪気に信じていい時期はきっと、ずっと前に終わっているのだから。
そこまで考えて、ふと、「プロのM」という人を、今まで見たことがないことに気づく。
「主従」の関係からはあり得ない存在、でも、まだ見たことがないだけに、想像してみると、なかなか、先が深そうな気がして、もう少し妄想の空間を歩いてみようか、と思う。
しかし、それは構図の上では「多対一」なのかもしれないけれど、お互いにお互いが「them」であって「one」ではない状態、なのではないだろうか。
「奴隷オークション」のように、大勢の中から一人を一方的に選ぶことは、あたかもまさに「one of them」を決める舞台に見えて、実はただ単になにかを選んだだけ、に過ぎない。
「one」になりうる存在は、もともと「them」の中にはいないような気がする。
「them」の中にいる「one」は、確かに一つの存在ではある。でも、「them」が「one」の集合体だと思った瞬間、それは単に相対的な比較行為に過ぎなくなる。
比べる、という行為の先に、ほんとうの答えは見えないものだと思う。
目の前の「them」が、自分の求めうる一番大きな集合体なのか、それは誰にもわからないし、比較優位に立っているモノが、果たして自分の「one」になりうるのかどうかは、やはり誰にもわからないことなのだろう。
とはいえ、特にSの女性が、素性のわからない異性をいきなり受け入れるのは、相当に危険なことだ。ネット経由で知り合った異性を、無邪気に信じていい時期はきっと、ずっと前に終わっているのだから。
そこまで考えて、ふと、「プロのM」という人を、今まで見たことがないことに気づく。
「主従」の関係からはあり得ない存在、でも、まだ見たことがないだけに、想像してみると、なかなか、先が深そうな気がして、もう少し妄想の空間を歩いてみようか、と思う。
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